それからは大変だった。黄金の屋根で有名なヴィシュワナート寺院に行く途中、「おい、ここの3階からは寺の屋根を見られるぞ」と数人の男たちに声をかけられた。よく見ると、含み笑いをしていて、何となく不気味だったので、適当に断ってその場を通り過ぎた。寺院に入ると、一人の僧侶が付きっ切りで中を案内してくれた。「さすが僧侶。外の男たちと違って親切だな」、と感心し、案内されるままにしていたのだが、なんと、行く先々でお祈りを強要され、その都度、法外な寄付を求められた。その1回の額は、宿1日分の宿泊料(安宿であったが)と同じだった。しかし私は、理不尽さを覚えながらも、相手が「僧侶」であり、寺院が「聖なる場所」ということで、渋々言われるままに支払ったのを覚えている。
旧市街では、時々欧米人観光客を見かけた。宿で知り合ったフランス人は、「僕らは決して一人では海外旅行には行かない」と言っていたが、一人で旅行に来たような人も結構いた。とある食堂でも見かけたが、そういう人はたいてい本を何冊か持ち歩いていて、食事後、もくもくと読み始める傾向がある。普段の生活でもそうしていて、きっと一人でいるのが好きなのだろう。
もちろん日本人も見かけた。ある民族楽器店に、楽器のリズムを合わせて手を叩いている日本人女性がいた。30代ぐらいでよく陽に焼けていた。声をかけて話をしてみると、「ここ数年間、世界を旅している。そしてこれからどこに行くかはまだ決めていない」ということだった。一瞬、自分と似たものを感じた。しかし、自分とは全く別次元の存在でもあった。私には日常があった。学校、部活があり、そして鉄道会社でのアルバイトがあった。家族もあった。そういう制約の中で、大学の夏休みのある時期に、時間を作ってやっと海外へ来れたのだ。ただ、外国というものがどんなもので、日本とは何なのかが多少でも分かれば良かった。だから、そういう非日常に完全に身を投げられる、マルコポーロのような人に感服を覚えた。「もしかすると、こういう人が歴史に残る作家や冒険家になるのではないか」と思った。しかしそれでいて、ある種の懸念も感じた。「この人は、この後どうやって生きていくのだろうか」と。
この時、旅行初日に出会った中年日本人男性の言葉を思い出した。「これから旅していく上で、長年世界中を旅して回っている人たちに出会うだろうけど、彼らには気をつけた方がいいよ。変わってるから」。海外旅行経験豊富な人だけに含蓄のある言葉だった。世界を旅して自分を探しているうちに、結局、何も見つからず、何にもなれずに終わってしまう人がいるということだろう。
最近分かってきたが、人生の目的を見つけるには、結局のところ、「内観」しかないのではないだろうか。旅は飽くまでも、そのきっかけであり、気分転換であり、経験の一つに過ぎない。やはり最後は、自分は小さい頃何になりたかったのか、今までどんなことをしてきたか、今、何が出来るか、といったことを一つ一つノートに書き出して考えてみるしかないのではないだろうか。読書も一つのきっかけだろう。そうすると自ずと生きる目的は見つかるのではないだろうか。何でも良いだろう。たとえそれで食べていけなくても、別に職を得ながら、何かしらその趣味に関わることは出来るはずだ。有名なカウンセラーによると、生きる目的は何も夢を叶えることだけではないようだ。自分の欠点を直すことも一つの目的なのだそうだ。人生の目的とは、意外にも身近にあるものなのかもしれない。
それからまた旧市街を歩いて周った。しばらくして、ある女性たちの集団に出くわした。彼女たちは、決して豪華ではないのだが、清潔で色とりどりのサリー(民族衣装)を身にまとい、アクセサリーを身に付け、きれいに着飾っていた。そう言えば、バナラシの女性たちはそれぞれ小奇麗に着飾っていた。日頃、東京の新宿・渋谷の街を歩いて少しウンザリしている自分からすると、それはとても新鮮なことだった。今の日本には失われてしまった美徳が、この街ではまだ残っていた。さすがガンジス河の聖なる都であった。この時私は、残りの滞在期間の全てをこのバナラシで過ごすことに決めた。
宿に帰ると、東大生が翌日、バナラシを経つことになっていた。「インド中を周りたいので、飛行機を使う」とのことだった。「飛行機」と聞いて、正直、驚いた。飛行機であちこち飛び回って、目ぼしいところを掻い摘んで見て周ることに私は否定的だった。それは単なる観光でしかない。私にとって旅とは、その土地の人々と出会い、話し、様々なことと比較しながら自分や日本について知ることだった。そのためには気に入った土地に長く留まる必要があった。
帰国後、東大生から留守電が数回入っていたが、疲れていたこともあってすぐには連絡を取る気にはなれなかった。しばらくして部活の強化練が始まり、すっかり連絡を取るのを忘れていた。そして、結局、余りにも期間が開きすぎて、憚られて連絡が出来なくなってしまった。それからしばらく経った2学期のある日、大学の前を自転車で通りがかった時、彼らしき人が甲州街道沿いのガードレールに腰掛けているのを見かけた。きっと今頃は、外資系企業で華々しく働いていることだろう。
東大生が、宿を経ってからは、二人部屋は私の部屋になった。料金は一人分で寝泊りできたのだから、非常に快適だった。8月初旬のバナラシは、季節的には雨季が終わったばかりで、からっとした暑さで、風があれば日陰は涼しく、非常に過ごしやすい季節だった。ガイド少年曰く、「一番良い時に来ましたね」ということだった。一人になってからしばらくは、旧市街の喫茶店で本を読んだり、ガンジス河の船岸に行っては人々でにぎわう様を見物した。すっかりバナラシの住人になった気分だった。時々、世界地図を頭に浮かべて、自分がいる位置を想像してみると、非常に不思議なものだった。ユーラシア大陸の東の島にしかいたことのない自分が、同大陸インド北部の川辺の町に今いるのだった。
それからしばらく経ったある日、宿に戻ると、眼鏡を掛けた三十代ぐらいの日本人男性が宿を求めてやって来ていた。宿の主人曰く、「二人部屋が良いそうだ。残念ながら君が泊まっている部屋しか空いていないのだが」ということだった。それを聞いて不思議に思った。普通、一人で来たら一人部屋を望むものだが、彼の場合は、二人部屋が良いということだった。何だか怪しく思って理由を尋ねてみると、関西訛りで、「そっちの方が安いから」だった。単純な理由に少し笑った。私は、占有物にしていた部屋を他人に明け渡すのは非常に残念だったが、元々は二人部屋であること、悪い人ではなさそうということを考えて、承諾した。今思うと、この人との出会いによって、私のインド旅行の後半は非常に有意義なものとなった。やはり一人旅の醍醐味は不思議なご縁、人との出会いにあるとつくづく思う。
その夜、「明日、ガンジス河に日の出を見に行こう」ということになった。関西人の彼は、駅で出会った女性とそう約束しているらしく、私を誘ったのだった。彼は日本で銀行員をしていて(超一流都銀の人と10年ほど経ってもらった転居案内で知った)体格がよくて親しみやすく、気さくな人だった。
翌朝、目覚ましの音で起きると、辺りはまだ真っ暗だった。関西人の彼も起きていた。身支度をして宿を出て、まだ真っ暗な道をしばらく歩くと、日中どこにいたのか、5、6匹の野犬が侵入者を威嚇するかのように激しく吠えてたてて道を塞いでいた。間違って犬の檻にでも入ったかのようだった。流石に一瞬怯んだが、狂犬病の予防接種を受けてきていた私が先に行くことにした。「決して慌てず、走らず、逃げ出さず」小さい頃に学んだ野犬対策のコツだった。当時はよく、早朝、保健所による野犬狩りが行われていて、ソフトボールの練習等で朝早く起きると、遠くで野犬の悲鳴が聞こえたものだった。
それから関西人の彼が駅で出会ったという女性を宿まで迎えに行き、合流後、ガンジス河へと向かった。彼女は、「私、逗子に住んでいるのよ」ということだった。当時は、関東のことはよく知らなかったので、詳しい場所を尋ねると、「神奈川県東部の半島のことよ」と答えが返ってきた。その時の印象としては、「熊本で言うと天草辺りかな。この人は田舎に住んでいる人なんだ」としか映らなかったので、それ以上聞くのを遠慮した。しかしどうやら、逗子とは、電車一本で東京まで行ける、あの石原慎太郎東京都知事も住む、お金持ちたちのリゾート兼居住地であること最近よく分かってきた。
途中、ある建物の裏手の砂利道を通ったが、そこで何人かの女性が屈んで何かをしているのが暗闇の中に薄っすらと見えた。よく見てみると、彼女たちは何とそこで、用を足しているのだった。「インドの貧困層は、自宅にトイレがないので外で用を足す」と後に知るが、その最中を通り抜ける時の感情は何とも言い表せないものがあった。
ガンジス河の船着場は、結構人で賑わっていた。暗闇の中、篝火があちこちで炊かれ、辺りはちょっとしたお祭りのようだった。中にはもう沐浴をしている人々さえいた。聖なる都バナラシの朝は予想以上に早かった。
まだあたりは暗い中、舟に乗ってみることになった。関西人の彼が交渉し、気の良さそうな筋肉質の男の舟に乗ることにした。その舟は、8人乗りぐらいの小さな手漕ぎボートで、乗る時にはかなり揺れた。雨季が終わったばかりのガンジス河は、まだまだ水量は多く、流れは速く、「落ちたら溺れるな」と思い、気を引き締めた。そうこうしていると、向こう岸の彼方がだんだんと明るくなり始め、サバンナの広がる地平線上に、大きな線香花火の火の玉のような、真っ赤な太陽が浮かび始めた。それは「ここはアフリカか?」と思えるくらい、自分が地球という惑星の上に存在することを実感させる、それはそれは雄大な光景だった。
それからガンジス河の向こう岸の砂浜を歩いてみることになった。舟から降りて振り返って見てみると、明け方の空の下に煉瓦の建物が立ち並ぶ見事な景色が広がっていた。日頃、ガラス張りの高層ビルや古びたコンクリートの雑居ビル、そして度派手な看板の立ち並ぶ東京で生活している自分からすると、そのままずっと眺めていたいほどの、それはそれは見事な絵なる光景だった。
ホテルに戻るとまた一人で散歩に出かけた。特に行くところもなかったので、釈迦の生誕地、サルナートにでも行こうとリキシャー乗り場へと向かった。そこでいつものように「競り」が始まった。「駅まで行きたい」と言うと、早々と「俺は10ルピーで行く」と言う男がいたが、近くにいた小学校低学年くらいの子供が「He is a cheating man!(そいつは嘘つきだぞ!)」と叫んだ。しかし、子供の言うことなので特に気にも留めず、私はその男のリキシャーに乗った。すると50メートルも行かないうちに、停車して、「あと20ルピー払わないと行かない」と言い出した。インドに慣れて図太くなっていた私は、「Are you OK?(お宅、大丈夫?)」と言ってさっさと元の場所に引き返した。それからまた競りをしようとすると、先ほどの子供が、「僕が言ったじゃないか?僕なら15ルピーで行くよ(I advised. It costs you 15 rupee.)」と言ってきた。「君も運転するのか?(Are you a driver?)」と聞くと、得意げに「Come with me.(付いておいでよ)」と言い、僕を連れて歩き始めた。