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1997 インド旅行記2

車窓から見たインドの農村

  翌朝、宿の主人が経営するレストランで食事を取った。冷房の効いた、なかなか綺麗なところだった。食事をしながら宿の「住人」たちと会話をはずませていると、ふと現地の少年がやってきて、「お金、頂戴」と言ってきた。私は、「安易な寄付行為は慎んだほうが良い。彼らの勤労意欲を削ぐ」とアドヴァイスを受けていたので、丁寧に断ると、少年は、「だって、あのおじちゃんがくれるって言ったよ」と向かいのテーブルの白人男性を指差した。その男はニヤリと笑った。当時、日本人は、「武器を持たない、歩く身代金」と言われ、身代金目的の誘拐事件が各地で頻発していた。私は、その白人の日本人蔑視的な態度が我慢ならず、その少年に、「あのおじちゃんがお金くれるよ」と言った。その少年はまたその白人のところに戻り、金をせがんだ。そしてその男がひどく狼狽するのが見えた。
  外へ出るとそれぞれ別行動をすることにした。私は大通りへ出て、とある雑貨店に入ったが、特に買いたいものがあるわけでもなく、すぐに外へ出た。何をするともなくぬかるんだ通りを歩いていると、「こんにちは」と突然日本語で声を掛けられた。振り向くと鼻ひげを生やした、中学生ぐらいに見える現地の少年が立っていた。明らかに怪しかったので、質問に適当に答えていると、「私はインドで有名な日本人の久美子を3人知っています。一人は後藤久美子、もう一人は秋吉久美子、そしてKumiko' HouseのKumiko」。思わず笑ってしまった。欧米で「Ice Break」と呼ばれる、初対面でのジョークを使えるこの少年に少し興味が沸いた。暇をもてあましていたこともあり、現地の事情を直接土地の人から聞いてみたいという好奇心もあり、しばらく彼との会話に付き合うことにした。
  その少年は、実は少年ではなく、バナラシ大学の医学生で、学費を稼ぐためにガイドの仕事をしているということだった。彼の日本語能力はあまりにも素晴らしく、信頼し、しばらく付き合ってみることにした。いろいろと連れて行ってもらった。
  まずは学校。授業中だったが、お邪魔させてもらった。10人くらいの少人数のクラスで、土間に絨毯をひいて座っているだけの簡素な学校だった。テレビで見たことはあったが、実際に見るのは初めてだった。自己紹介をして、簡単なやりとりをした。「将来何になりたいのか?」と聞いてみたところ、「弁護士」「学校の先生」といったしっかりしたものが返ってきた。授業中積極的な生徒はだいたい成績優秀な生徒なので、そういう真面目な答えになっただけかもしれないが、明らかにその教室には真摯に勉強するという雰囲気があった。懐かしいものを感じた。しばらくして、礼を言い外へ出た。気分が良かった。それから校門へ向かって歩いていると、一人の男が寄って来た。それは、寄付の話だった。
  次に少年は、私をガンジス河の船着場に案内し、船に乗せてくれた。彼によると、ガンジス河岸には火葬場が2つあり、一つは薪で、もう一つはガスで燃やし、薪式の方が料金が高い、インド中から次々に遺体が送られてくるので、一日中フル稼働、死ぬ前にバナラシに来て余生を送る人が多い、遺灰は河に撒かれる、病人、赤ん坊、僧侶、妊婦等の遺体は焼かれず、そのまま河に流されるとのことだった(最後の話を聞いて、私はガンジス河で絶対に沐浴をしないことに決めた)。薪式の火葬場をガンジス河側から見せてもらったが、作業員が棒で遺体を横にしたり、裏返したりしているのが妙にリアルだった。そして、その火葬場は誰でも簡単に見ることができ、すぐ近くの建物の最上階から子どもたちが火葬場にいる観光客に声をかけて、手を振っていた。実に不思議な光景だった。「死」というものは当たり前のもので、それは日々の生活と共にある、という感じだった。

インド人少女

  船着場に戻ると、少し日が落ちかけていた。もう宿に帰ろうと思っていると、少年は、「最後にアリババの兄『ニラババ』に会ってみませんか?」と言って来た。学校と火葬場への案内に満足していた私は、これも経験と、会ってみることにした。それから、途中で置いていかれたら宿へは帰れないであろう迷路のような旧市街の裏路地を彼の後に着いてしばらく行くと、ある古びた建物の中に案内された。電灯の薄明かりの中に香の香りがたち込める荘厳な雰囲気のある場所だった。案内されるまま、靴を脱ぎ部屋に上がると、薄暗い部屋の置くに横寝から大儀そうに起き上がる一人の男がいた。「ニラババ」だった。そしてしばらく、簡単な会話をした後、二冊のノートを見せられた。
  その2冊のノートには何と、あの俳優の緒方拳とそのマネージャーが感想を書き残していた。緒方拳は「ガンジス河の滔々とした流れを見ていると、人生の奥深さを知るとともに人生の儚さを感じざるを得ない…」といったことを書き残していた。さすが俳優緒方拳だった。一方、マネージャーは、「こいつは絶対ペテンだ。仰々しい態度しやがって。俺は絶対信じないぞ」といったことを書いていた。当初その非礼さに反感を覚えたが、インドでの経験を考えると納得もできた。「人を簡単に信用してはいけない」、生きていくうえで重要なことだった。だが彼らを見ると実に得意げな顔をしていた。私が感動してるとでも思っていたのだろう。まるで漫画のようでおかしかった。それから、生まれた場所、生年月日、職業、本名を聞かれた。ニラババの「占い」が始まった。
  しばらく瞑想した後、ニラババはゆっくりと語り始めた。「あなたは10歳の頃、人生が変わりませんでしたか?そして15歳の頃、また人生が変わりませんでしたか?」しばらく考えて、思い当たる節があったので肯いた。「そうでしょう。では次に未来の話ををします」そう言って、再び瞑想し始めた。そして目を開け、語り始めた。「あなたは33歳で大金持ちになります。ものすごい大金持ちです。そして社会のために尽くします。恵まれない子供たちを引き取り、育てます。そして50歳になった時、こうしてまた世界を旅して周わります。85歳まで生きます」そして彼は何かを見終わった後に感想を述べるかのように最後にこう言った。「Good life.(素晴らしい人生です)」素直に感動した。「実は私もそういうふうに生きてみたかったのです。そういうふうになると本当にいいですね」と伝えた。その場に心地よい静寂が訪れた。
  しばらくして、「ところで、私は多くの孤児を引き取って面倒を見ています。もしよろしければ、その子たちのためにいくらか寄付をしていただけませんか?いくらでも構いません」とニラババは言った。私は快く引き受けた。とても気分が良かったのだ。ニラババが孤児の面倒を見ているのは本当かもしれないし、万が一これが嘘だとしても、占い料と思えばよかった。財布を確認すると日本円しかなく、断りを入れ、3千円机の上に置いた。当時1万円はインドの平均月収だったが、そんなことはすっかり忘れていて、ついつい日本の感覚で出してしまった。また日本円が通貨として受け入れられたことが日本人として誇らしかったのかもしれない。
  それから、ガイド少年にガンガー富士の前まで送ってもらい、翌日また会う約束をして別れた。宿に帰ると、東大生が心配してロビーで待っていてくれた。いきさつを話すとその場にいた宿の主人が言った。「He's a cheating man, always drinking and lying.」(あいつはペテンだよ。いっつも酒を飲んでは寝てばかりいる)。バナラシもまたインドだった。

バナラシの交通

  その夜のロビーには意外にも日本人が多かった。中には、1年以上もその宿で「暮らしている」、色白で顔立ちのはっきりした、美しい娘もいた。しかし、宿の主人曰く、「彼女はいつも酒を飲んでは寝てばかりいる。しかもパンツ丸見えだよ」ということだった。彼女はその日、東大生のパソコンを勝手に触って故障させてしまっていて、その夜、彼は、机の電気をつけて遅くまで修理をしていた。
  「自分探し」。当時の流行語だった。世間には、学校を数年間休学してまで、世界中を旅して回る学生が少なからずいた。インターネットで旅行記を発信し、中にはそれを出版する者までいた。しかし、私にはどうも違和感があった。確かに世界を旅して回わると世界観や視野は広くなるだろうが、ただそれだけでは決してまともに生きていくことは出来ないのだ。日本という恵まれた環境で、アルバイトをして稼いだお金で、途上国を旅しても、旅が終わり、帰国したら、また同様の生活が待っている。母国できちんとした生活していきたければ、どこかでまともにお金を稼がなくてはならないし、そのためには努力して何かしらの技術を身に付けなければならない。宮本武蔵は、剣の道を通して、己を磨きながら自分を探した。そこには「研鑽」があり、身に付ける「技術」があった。ただ外国を見聞して回るだけでは、残念ながら技術は身に付かない。やはり最後には「目標と努力」というものが必要になってくる。彼女に何があったのかは知らない。だが、「自分探し」とは、魅力的で危険な言葉だと思う。
  同じ夜、「次の朝、またガイド少年と会う約束をしている」と、宿の主人と東大生に話すと、「止めておいた方がよい」と助言を受けた。その夜、パソコンを修理する東大生の姿を見ながら、ベッドに横になり、しばらく行くかどうか考えた。翌朝起きて、身支度をし、しばらく考えて、結局、会いに行くことに決めた。約束は約束だったし、まだガイド料を払っていなかったのだった。少し遅れて約束の喫茶店へ行き、しばらく世間話をした。そして金の話になった。彼は「気持ちでいいです」と言ってくれたが、日本のガイド料とインドの物価、そして感謝と寄付の意味を込めて、相応額を支払った。正直、彼のガイドには満足していた。まさか、現地の学校で自己紹介なんて、当初の計画にはなかったことだった。確かに、彼がバナラシ大学の医学生で、学費を自分で稼ぎ、家族へ仕送りしていることの真偽は分かりようがなかったが、実際に、半日に渡ってガイドし、私を満足させてくれたことには変わりなかった。別れ際、彼は「あなたならきっと夢を叶えられると思います」と言ってくれた。別れた後、施しをした満足感に浸りつつ、時折湧いてくる、ちょっと払いすぎたかなという後悔の気持ちとやっぱり自分も日本人だな自虐的な気持ちを、その都度、寄付をしたんだという充足感で打ち消しながら、再びバナラシ市街へ観光に向かった。

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