1997年の夏、生まれて初めての海外旅行先にインドを選んだ。ガイドブックをしっかり読み、マラリア、赤痢、狂犬病等の予防接種を確実に受けていった。成田発カルカッタ行Air India機内のスクリーン上に東南アジア上空の地図が映し出され、現在地が表示されると、何とも不思議な感覚に襲われた。地図や地球儀でしか見たことのない地域の上空に、今、自分がいるのだった。現実なのかそれとも夢なのか。実に妙な感覚だった。1度バンコクで経由。着陸時に横揺れする。着くまでに死んでしまいそうだった。
ビールを飲んで一眠りすると、まもなく到着とのアナウンスが流れる。荷造りしてタラップを降りると、暗がりから突然モアッとした生暖かい空気が押し寄せた。「インド」だった。それからホテルに着くまでの間、まるでテレビでも見ているかのようで、目前の光景を現実だと受け入れるまでに暫く時間がかかった。近年、カルカッタは観光に力を入れ、整備され、歩くと群がると聞いていた浮浪者は見当たらないが、やはり道端には寝てるのか、死んでいるのか分からないような人々が幾分見受けられた。裏道はやたらと野犬とカラスが多く、徒歩での観光はかなり危険を伴うものだった。
翌日、ホテル(Lytton。「深夜特急」の沢木耕太郎氏が泊まったホテルと後で知る)でたまたま一緒だった中年日本人男性とホテル近くの食堂で昼食をし別れる。旅慣れた様子で、「出来るだけ一人で旅をした方がいい。喧嘩するから。それと何年も世界中を旅して回っているような放浪者(バガボンド)は変わったのが多いから気をつけた方がいい」とのアドヴァイスをもらう。世界のど真ん中にポンッと放り出されたような不安を感じるも、すぐに気を取り直す。博物館にでも行こうと思ったが、今回の目的は芸術鑑賞ではなく、インド見聞だったので、次の町へと急ぐことにした。カルカッタは整いすぎていて、正直あまり面白くなかった。
徒歩でハウラー駅へ向かう。暫く歩くが、物騒になり始め、日が暮れる前に着きたいこともあり、ホテルに戻りタクシーを呼んでもらう。ハウラー駅周辺は開発が進んでおらず、見るだけでもタクシーに乗って正解のようだった。
ハウラー駅では迷いに迷った。堪りかねて案内係を見つけ筆談すると、新旧の駅舎の、古い方に来ていた。短・中距離列車が発着するところで、長距離は新しい方ということだった。流石、古いだけあって、地面には糞尿のようなものが垂れ流しになっていた。
早速、新しい方へ行ってみる。切符売り場は長蛇の列。そこに日本人らしき人を発見。向こうから声をかけてきた。彼は東大の4年生で、外資系企業に内定をもらっていた。外資系らしく、IBMのパソコンで何やら色々と作業をしていた。デジカメも持っていた。ようやく窓口まで辿り着き、バナラシ(インダス河の沐浴で有名)行きのチケットを買う。最後に駅員に「Baranasi, OK?」と言って、確かめると、首を横に傾げる。拙い英語でもう一度確かめてみると、再度、横に傾げる。ここでやっとガイドブックの注意書きを思い出す。インド人が肯くとき時は、首を縦に振るのではなく、横に傾げるのだった。
その後、また迷う。表示が良く分からず、どの列車に乗って良いのか分からなくなったのだった。駅長に相談すると、駅長自らホームまで案内してくれた。そして、まさかとは思ったが、当たり前のようにチップを要求された。やはり、そこは「インド」だった。
2等寝台を選んで正解だったと思う。まさに冒険だった。寝台と言っても座っている座席にそのまま寝るだけ。シーツも毛布もない。念のために持っていった綿製の長袖シャツをタオルケット代わりにして寝た。インドの列車はまた、街中同様、賑やかだった。停電で途中で止まり、車内が真っ暗になったり、駅での停車中に乗り込んできたストリートチルドレンが「バクシーシ」と恵みを求めてきたり、売り子たちが様々なものを売りに来たりする。まずミネラルウォーター。これがよく見てみると蓋に封がしてなくて、明らかに拾った空殻に水道の水、もしくは河の水を入れただけの代物だと分かる。気を抜いていると騙されて飲んで伝染病にでもなりかねない。一方で、チャイというミルクティーは甘くて温かくて美味かった。これもどんな水を使っているか分からなかったが、熱している分、ましだった。器は土器で、飲み終わると、皆、窓の外に放り投げていた。最初は抵抗があったが、よく考えてみると、土へと帰っていくので、一種の輪廻転生、エコであり、それは「インド」らしく、非常に感心させられるものだった。
夜中、ふと目を覚ますと、あたり一面、オレンジ色。よく見てみると、それは途中で乗ってきた、ラマ教か何かの僧侶たちの衣装だった。枕元にはゴミとも間違いかねない荷物が置いてあって、どうやらそれは僧侶の一人のものらしかった。相手が僧侶だけあって「退かせ」とも言えず、自分の荷物に鍵がかかっていることを確認して、また、寝た。
翌朝起きると、僧侶たちは消え、車内は平穏を取り戻していた。東大生が先に起きていて、窓際に座っていたので、自分もそこへ行き、昨夜の僧侶たちについて話し、盛り上がった。どうやら夢ではなかったようだった。同じコンパートメント内の客も入れ替わっていて、父親と娘が加わっていた。片言の英語で話しかけてみると、帰省先から自宅へと戻るところということだった。それから、少女とジェスチャーで会話し盛り上がっていると、父親が不機嫌になって文句を言ってきた。外国人である私をかなり警戒している様子だった。困ったことに相手の誤解を解くだけの英語力も無かったので、しばらく席を外した。そしてまた戻って、二人の写真を取ってあげた。すると、父親に笑顔が戻り、住所を教えてきた。どうやら、「ここまで送れ」ということのようだった。
バナラシ駅に到着した。そこには都会のハウラー駅のような喧騒はなく、日本の旅先を思い出させるのどかな田舎駅だった。ホーム同士をつなぐ連絡橋を渡り、階段を下りていると、突然、初老の男性が「リキシャーに乗らないか?」と声を掛けてきた。訝しがる我々を横目に、彼は笑顔で手帳を取り出し、日本人客が書いた彼に対するコメントをいくつか見せ、いかに自分が誠実で親切で善良な人間であるかを我々に理解させようとしてきた。我々は、実際いい人そうな彼を信用し、彼のリキシャー(オードバイ式の人力車。日本の人力車に由来する)に乗ることにした。駅の外に出てみるとリキシャーがずらりと並び、市場の競りのように客の獲得競争が行われていた。それを見て我々は「インドに来た気がしますね。でも着いてそうそうあれじゃ、大変でしたね」とお互いの顔を見て笑った(インドでは先に目的地を言い、料金を聞くのが基本)。バナラシの交通は、まさに「リキシャーの洪水」といった様相で、お互いがちょっと擦れ合うぐらいは日常茶飯事のような、混雑振りだった。そしてまさにここから、私の本格的なインドの旅が始まるのだった。
走り出して暫くすると、急にリキシャーは止まった。どうしたのかと尋ねると、何でも、「この先で暴動が起きていて危ないから、自分の知っているホテルに案内する」ということだった。当時、大学1年だった私は、相手の言うことがよく聞き取れず、東大4年の彼に何を言っているのか教えてもらった(これでも京都のある大学へ行くために、当時不要だったリスニングの勉強をしていたので、英語には相当自信があったのだが、実際の英語は早くて聞き取れなかった。また、信条が違い、まず行動を共にすることはないと思っていた東大生と一緒にいる自分も不思議だった)東大生は「嘘に決まっている。降りよう」と促した。私はまだ嘘とは思えず、半信半疑で降りたが、別れ際、「じゃあ、荷物だけでも置いて行け」と言われた時、それは確信と軽蔑へと変わった。暫く歩き、またリキシャーを拾った。今度のドライバーは、働き盛りの髭を生やしたがっしりとした男だった。コイツの場合は、走り出して10mも行かないうちに、車を止め、物凄い形相で「あと倍払わないとここから先へは行かないぞ」などと言ってきた。流石の東大生も今度ばかりは呆気に取られ、ただオドオドするばかりだった。と、突然、「You said!」(10ルピーで行くって言っただろ!)と言葉が出た。私の出番だった。私が生まれて初めて、英語で啖呵を切った瞬間でもあった。
僕らはリキシャーを捨て、歩き出した。道は舗装などされておらず、前日の雨でかなりぬかるんでいた。暫く歩くと、傍らに売店を見つけたので、しばらくそこで休憩することにした。僕らは疲れていた。扇風機に当たり、ラムネを飲みながら、椅子に座って休んでいると、その店の主人が「ホテルは決まっているのか?」と聞いてきた。もう騙されないぞ、と思いながらも話を聞いてみると、「『Kumiko's House』も有名だが、『Ganghar Fuji』が安くて清潔だ。日本人客は大抵そこに泊まる。何ならコイツが案内する」と傍らにいた老人を紹介してきた。「富士」という名前がいかにも日本人客目当てでいかがわしく思えた。だが、しばらく考えた後、僕らは彼を信じることにした。店をやっているのだから、評判を下げるようなことはしないだろうと。それに僕らは、二等寝台とリキシャーの件で疲れていて、これから自分の足でホテルを探す気にはとてもなれなかった。これから何回騙されるか分からなかった。ラムネを飲み干すと、僕らはリュックを背負い、その老人の後を追って歩き出した。薄暗い曇り空の下、どこに続くとも分からない、迷宮のような旧市街の細い路地をしばらく歩いた。そして僕らはある古びた白い建物の前に着いた。
「Ganghar Fuji」は思ったよりもきれいなところだった。決して広いとは言えないが、ロビーには品の良いソファーが置かれ、天井からはシャンデリアが下がっていた。部屋を案内してもらうと、冷房はないものの、天上に大きなファンが付けてあり、心地よい風が降りてきていた。シーツも綺麗で、ちょっとした椅子と机もあった。部屋を出るとき、主人の母親と思われる人が洗濯をしており、愛想よく挨拶をしてきた。家族経営のホテルだった。僕らはそこで宿をとることに決めた。
「Ganghar Fuji」には日本人だけでなく、外国人も多く滞在していた。その夜はロビーで情報交換会となり、英語が話せる人間は英語で話した。あるフランス人一行は、片言の英語をしか話せない私を見て、東大生に、「彼は本当に大学生なのか?」と聞いていた。私はムッとしたが、東大生が、「日本の英語教育では、読み書きが主で、聞く話すはほとんどやっていないのが現状だ。英会話の勉強は大学から始まるんだ」と説明してくれていた。そのフランス人たちは他にも色々と話しかけてきたが、東大生は一つ一つに対し、きちんと英語で応えていた。実に見事だった。私は笑顔とジェスチャーで応対した。この時の悔しさと羨望が、私の今の語学学習熱に繋がっているのは間違いない。