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2008.8.9 熊本見聞録―五木
今回は緑川ダムから左に折れ、五家荘から五木に入りました。
昔はここに人吉藩(相良藩)の関所が置かれていたそうです。話によると幕府の隠密は、薩摩よりも人吉にこそ潜伏が難しかったそうです。
五家荘の方から入ると、こういった川辺川の源流に出会えます。水質度全国一を誇る川辺川。樺島知事の英断に敬意を表します。ついでに一房ダムと荒瀬ダムも撤去して頂き、ダムに頼らない治水対策を行って頂きたく思います。技術大国の日本にならそれは出来ますし、ダムのお蔭で、球磨川の水質は落ち、また放流によって洪水も酷くなったときいています。景気対策としての土木工事はダム以外でも出来ると思います。例えば、人吉城の復元等の歴史建造物の復元です。五木村にもかつては33の集落があり、それぞれが神社と寺を持っていたと聞きます。これらを復元させてはいかがでしょうか?観光に繋がりますし、雇用にも繋がります。また森林管理を徹底すれば、また雇用も生まれますし、治水対策にも、水質維持にも役立ちます。
こちらも川辺川。子供たちが水遊びをしていました。
熊ヶ嶽猪介(黒木松次郎)の墓です。大関免許取得後は京相撲で活躍し、平戸藩のお抱え力士だったそうです。それから一度帰郷後、再び41歳で江戸相撲に挑戦し、前頭5枚目まで昇進しました。当時の大名は江戸相撲のどの関取を召抱えるかに熱を入れており、熊ヶ嶽は最終的に人吉藩に抱えられ、引退後は相良藩の相撲師範をしていたそうです。当時の次男以下は大変だったみたいですね。墓は本人の希望通り生家近くの銀杏の木の脇に作られ、現在は五木村の文化財となっています。
墓の説明書です。この墓の前にはお堂があり、上平野地区にもかつてはやはり、寺と神社があったそうです。
叔父が宮司を務めている五木阿蘇神社です。阿蘇神社が阿蘇だけでなく、近隣にまでいかに権威があったかというのがよく分かります。
五木阿蘇神社の沿革です。五木村には平家の落人伝説がありますが、私の又従兄弟の話によりますと、源氏の武将たちが平家追討に来てそのまま平家を見張るため定住したとのことです。確かに、黒木家から五家荘の緒方家までは国道で繋がっていますし、黒木、土肥、清水、酒井、椎葉等源氏姓(宇多源氏・佐々木源氏)が目立ちます(ちなみに福岡県黒木町の黒木姓は藤原系、鹿児島の黒木姓は源氏系(島津系)、宮崎の黒木(くろぎ)姓は源氏系)。その後鎌倉からやって来られた相良氏は、五木村に自分よりも格上の人々がいるのを嫌って家系図を取り上げつつも、地頭職を与え、彼らの所領を安堵しました。その名称は江戸時代になっても引き続き用いられ、明治維新後から戦前までは、33人いた旦那衆(元地頭職、33人衆とも言われる)が交代で村長職を務めたそうです。
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